「分からんノート」
今日は久しぶりにチョット長いブログになりそうです
残り少ない職場生活で。お客さんが私に何か聞きたい
ようなのですが、忙しい時間帯に私を引き留める割に
残念ながら何が言いたいのか分かりません。
やっと理解して、そのお客さんなら案内しましたよと
案内先を伝えました。忙しさで手が8本になる残像を
残す勢いで処理してる中。また奴が目の前にいるのだ
奴と言ってもパッと見た目30代の好青年の雰囲気だ
その彼がまたしてもまた何を質問してるのか分からん
やっと理解したわ。案内先したお客さん(青年は家族)
が案内先が分からずにうろついてるのだと。血走った
目の私が表に出て青年に案内先を説明したわ。
忙しい中すみません。と言う割には要点を得ずに時間
と労力を要したわ。
思ったんですよ。親が何でも先回りしてレールを敷いて
育ったのかなとか考えずに生きてきたのかな?とかさ。
子どもの頃から思ってた事なんですがね、苦手な教科ほど
どこが分からないの?なんて聞かれても。
もはや、どこまで理解してどこから分からないなんて区別
つかないほど分からないものなのです。
確か先生も「分からない事あったら聞いて」とかなんとか
あったけど。誰も質問何てないし。もしかしたら他の皆も
分からないトコロが分からない状態だったのではないかな
今思うと
そうやって「分からない事があったら聞いて」って投げる
人ほど、いざ分からない時に助けにならない確率が高い(笑)
優しく見せかけて放置という名のいじわるでしかないんだ
本当に優しい人ってのはつまずいた時に一緒にいてくれる
人なんじゃないかなぁ。一緒にどこが分からないか=どこ
で躓いているかを一緒に考えてくれる人なんじゃないかな。
でもね。ここでもカラクリが有って
更に。あえて。答えを出さずに一緒に問題点を考えてくれる
かが本当の優しさなんじゃないかと思うのデス。
正義も答えも人によって解き方は人其々違うのだから。
答えを出すのは自分の価値観を押し付ける可能性も高くなる
オトナになって
働くようになっても同じような会話は続くものなのですね
仕事を覚えるにしても質問力があるなし以前に。
もしかして人を育てる先輩の態度次第で質問力も比例する
のではないかなって。
親になっても似たような会話は続くものなのですね
子どもを育てるにしても子どもの性格や年齢によって変化
しますがそれ以前に。親の態度次第で子どもの質問力もね
比例するものではないかなって。
共通するのは気持ちの部分に添えられるか否か
会話にしてみても。本当の話し上手の人って聞き上手なの
かなって思うのよ。最初は聞き役だったのに気が付いたら
自分の事を話してた、しかも楽しい気持ちで。みたいなね
だから、勉強にしても仕事にしても子育てにしてもモヤっと
した時に相手に話せるかどうかで強力な質問になると思うの
分からないって気持ちはお互いに成長する切っ掛けなんだと
説明する・教える方が力が試されるのだョ♡
質問するほうも、答えるほうも
その積み重ねで質問力も鍛えられていくものじゃないかって
だからね。
9歳児の娘には裏紙で即席の「分からんノート」を作ったの
初歩的に先ずは心がモヤモヤした事とか、こうしたいと気持
ちはあるのに行動が追い付かないとか、何でもいいから先ず
は自分のうまく行かない事を書いてみて。
って伝えてみます( ´艸`これからの話です)
つまり、分からんノートってのは日記であったり手帳記載や
フローチャートや様々な表現吐露の簡素版みたいなものなの
私にとっての分からんノートは手帳とブログなんだろうなぁ
あなたの分からんノートの媒体は何でござるか👂?
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。